たろちんの感情の奴隷ブログ

やむを得ず社畜と化したたろちんが、お金にならない文章を思いついたときにだけ更新されるプレミアブログです。

自他とも認めるサーティマン

ゆずの「リボン」というアルバムに「もうすぐ30才」という曲がある。夢を諦めることにも落ち着いてそれなりに忙しい毎日にも馴染み、仕事から帰って缶ビール飲んでショボイ深夜映画でちょっと泣いたりする歌。20歳くらいのころにこれ聴いて「等身大なリアリティがあってよい歌ですね」などと他人事のように思っていたけど、自分がもうすぐ30歳になるにつれて不定期にこの歌が頭をよぎるようになった。昨日とうとう30歳になったため、「ぎゃああああもうすぐじゃなくてもう30歳だああああ」とは特に思わなかった。

というのも、まさにこの歌のように「もうすぐ30歳」という状況に馴染んでしまっていたから。むしろここ数年「時の流れなんて光陰よ。あと5秒で30歳だし6秒後には40歳だし6.2秒後に俺は老衰で死ぬ」などと過剰に悲観していたため、いざ30歳になっても「あれ、まだ30歳か。いけるやん!」というお得感すらちょっと感じている。でも風邪ひきやすくなったり太ったりたまにフットサルやると「全力疾走したらあらゆる腱が切れる」という確信があって6割ダッシュしかできなかったりして、そういうのはやっぱり多少切ない。こないだ健康診断で引っかかって明後日胃カメラを飲むのが私です。

30歳の初日は、普通に仕事行って帰ってきてほうれん草切って包丁で指切ってウルトラマン見て終わった。2005年くらいに制作された「40年目の真実」っていう後日譚的作品で、わりと老人になったハヤタ隊員が久しぶりにウルトラマンとコンタクトとって「当時の記憶ぼんやりやったけどわしやっぱりウルトラマンやったんけ」ってなる話。同窓会的なストーリーとウルトラマン第1話とつながるセリフとかちらほらあって、焼酎飲みながら見てたらちょっと泣けた。図らずもゆずの歌と同じことしてた。

とはいえ何もかもが20歳のころより衰えているかというとそんなことはなく、やっぱり僕も日々更新を続けているわけで、たとえば数年前からハマった将棋でいえば幼少時歯が立たなかった親父に勝てるようになったし、ヤフーに載っても許してもらえる程度の作文は書けるようになったし、友達や親に借金しなくても飲みに行ったり一人暮らしができるようにはなった。いわゆる大人感みたいなものもハリボテながら獲得したのでハタチの自分にはデカイ顔ができる。当時より体重も10キロくらい増えたので物理的にもデカイ顔をしているはずだ。うるせえよ。

じゃあ、なんでこんなに20歳くらいの記憶がキラキラしてるのかというと、やっぱりそれは大学なりサークルなりバイトなりは「別にやらなくてもいいこと」を一生懸命頑張っていたからであって、モラトリアムの終焉と同時にほとんどのことが「やらないといけないこと」になるからキラキラ感が減るのだろうなと思う。仕事も趣味も人間関係も「生活」という、自分が責任を取らないといけない一種の延命行為の一部になるため、人は大人になればなるほどディフェンスラインに張り付いて守りに入る。そのほうが失点のリスクは減るからだ。でも元サッカー日本代表ダイナモ北澤豪は「バランスを崩しても攻めなきゃいけない時がある」と言った。たぶん。なんかどっかでそんなことを言っていたような気がおぼろげに、なんか、する。

要はリスクを犯しても攻める姿勢を見せなければ敵のオフサイドも取れないし、カウンターも決まらないし、ひいては面白い人生にもならないということだ。生活は必須だが、生活にとらわれるとキラキラ感は減退し、キラキラ感のない人生はいよいよ短いものとなる。30歳。僕は今こそバランスを崩してでも攻めに転じる必要があると感じている。言うべきセリフはこうだ。

よかったら6億円振り込んでいってください。

ご清聴ありがとうございました。